ナイジェル・ケネディ

Nigel Kennedy


2002年、デビュー25周年を迎えた、
100万人にひとりと言われる“ヴァイオリン界のサラブレッド”


ナイジェル・ケネディ


アーティストと聴衆が一体になって楽しむ最高のコンサート!
幼少時よりユーディ・メニューイン(クラシック代表)とステファン・グラッペリ(ジャズ代表)の両巨匠に同時に薫陶を受け、学んだ全てを彼自身の音楽として華開かせ、その上にあらゆる音楽的挑戦を続けるナイジェル・ケネディ。おのずと人の何倍も努力を重ねた彼の音楽の深さ、幅広さ、技術、また人間味あふれるキャラクターどれもが傑出しており、これら全てを余すところ無く表現し尽くすことが出来るナイジェル・ケネディの超越的な力が、聴衆の魂を揺さぶる感動を生み出す。
ナイジェル・ケネディの素晴らしい音楽解釈と演奏テクニックのリードに、共演者は全力で応え、舞台には究極の音楽的対話が創出される。まさに、毎回のコンサートでクラシック音楽に新しい息吹が吹き込まれ、聴衆はその瞬間瞬間に参加し、至福の感動体験を味わう。


ナイジェル・ケネディ「“真の天才”ケネディの成長を見届けられる。それは幸せなことだ。」

ジョージ・マーティン
(ビートルズを育てた名プロデューサー)

「数十年に一度、芸術、科学界において人類は神童を輩出し、それによって世界は常により面白いものとなっていく。ヴァイオリンという困難な芸術においては、これまでにも非常に優秀な演奏家が誕生しているが、真の天才はめったに出てこない。が、ほんの一握りの人間だけが他の者からさらに頭ひとつ分飛びぬけた存在となる。ナイジェル・ケネディはそんな選ばれたヴァイオリニストであり、音楽家である。若い頃から自らの芸術性を築き上げ、地道な練習によりテクニックを磨き、過去の偉大なる作曲家や音楽家の作品の研究を重ねた。しかし、ナイジェル・ケネディは時代遅れなどではない。現代の音楽シーンに耳を傾け、若者の感覚へも敏感に感応する。ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにベルクの協奏曲を弾くケネディを聴きに行った時、聴衆の多くが30歳以下の人々であることを嬉しく思った。1977年、ケネディのロンドンでのデビューからもう25年も経ったということはとても信じがたい。が、まだまだ若いケネディであり、これからももっと前進していくケネディの成長を見届けられる。それは幸せなことだ。」


「ケネディと音楽する喜びは格別だ」

ダニエル・シュタープラヴァ
(ベルリンフィル・第1コンサートマスター)

「クラシック界には、確かに著名な演奏家が今でもたくさんいる。しかし最近ではそういった人々の演奏も似通ってきていてほとんど差を見出せないほど均質化してしまっている。ただ、ナイジェル・ケネディだけは違う。彼の個性、音楽は他に類似が見当たらない。まさに唯一、絶対の存在といえるだろう。私たちが彼と演奏する理由はそこにあり、この喜びは格別なものだ。」


《ナイジェル・ケネディ自身が語る・・・》

「音楽に真っ直ぐ向き合うとエネルギーが生まれる。それが美しいエネルギーであれ、攻撃的なエネルギーであれ、そのエネルギーが、聴いてくれている皆の心を動かすんだ。そんな音楽への意識を育ててくれたのは、僕が最も尊敬する師であり、音楽家であるユーディ・メニューイン卿とステファン・グラッペリ。このニ人は全く対照的なんだ。メニューイン卿は何に対しても整然としていて、グラッペリはステージに上がる直前に一杯引っ掛けるような人。しかしどちらもそれぞれの分野では真のプロフェッショナルで、本当に尊敬に値する。そんなニ人に同時期に知り合えたからこそ、答えはひとつだけではない、彼ら両方のようにはなれない、自分は自分でいなければならない、と思える。
たとえ、地下鉄駅の外の路上パフォーマンスでヴァイオリンを弾く生活であっても、クラシック音楽家としての道を歩むんであっても、どちらでもかまわなかった。音楽を創る場所に対する先入観ってなかったんだよね。だから、ジプシー音楽ミュージシャンや、偉大なるジャズミュージシャン、それからポーランド室内オーケストラといっしょに音楽できるのって最高だよ。
どうして音楽が自由かっていうと、それは互いを高めあって、伸ばしあえる自由な世界で創られるからなんだよ。」


ナイジェル・ケネディ《ナイジェル・ケネディ物語》
ナイジェル・ケネディの成功への道についてはことさら音楽史の本などを参考にしなくてもわかりきっている。この男は素晴らしいヴァイオリン弾きで、生まれながらにして伝達者で、通りがかりにクラシック音楽のコンサートに行くような人よりは水路工事に行く者に顔がわれるような数少ないクラシックミュージシャンの1人である。彼が英国サッカー・プレミア・リーグのチーム、アストン・ヴィラ狂だということは明白な事実であり、1989年のヴィヴァルディ『四季』アルバムは国際的なクラシックレコードの記録を破り、200万枚以上の売上を記録し、18世紀頭にかかれた音楽がポップミュージックのトップにものしあがれることを証明した。

なによりも先ず、バッハであれ、マイルス・デイヴィスであれ、ジミ・ヘンドリックスであれ、ジプシー民族音楽のバンドであれ、ケネディの音楽への情熱がヴァイオリンを聴く100万の心を新たに捕らえたのだということ。アストン・ヴィラの値がつけられないようなマフラーを手にし、グァルネリという二つと無いヴァイオリンも手にした男は、音楽に対する狭い視野を持った者のみならず、皆のために演奏することを公言する。レナード・バーンスタインやオーストリアのピアニストであり作曲家であるフリードリヒ・グルダに強い影響を受けた彼の開けた歩みよりは、何かしきたりに挑戦する度に保守的な人々から厳しい批判を受けてきた。ケネディは型破りな歴史的作品の証として『四季』やバッハの無伴奏パルティータを例にあげる。「素晴らしい音楽っていうのは、これまで受け入れられていたものの壁を取っ払うことの出来る人によって書かれていることが多い。最高の作曲家ってのは、これまであったものに新たに付け足すか、全く違うものに変えちゃうかどっちかだね。」

1991年の著書『Always Playing』では自身の生い立ちの詳細に触れる心構えがまだできていないと言っているが、幼少期に味わった孤独感や、学校でぶち当たった個人的な壁についてよく口にする。
1956年12月28日にブライトンに生まれ、母と祖母がピアノを教える、サセックスリゾートに近いアパートで育った。少年の生まれ持った音楽の才能は間もなく開花し、3歳から母親にピアノの基礎を習い、その母親は後にヴァイオリンを薦める。6歳になり、開校して間もないユーディ・メニューイン音楽学校を受け、ピアノとヴァイオリンを学ぶ場を得た。ナイジェルの母は再婚し―それまでに実の父はオーストリアに移っていた―ケネディが人生をかけて応援するアストン・ヴィラの種が撒かれたソリフルに引っ越した。

寄宿生としての数年は決して楽しいものではなかった、と認めている。結果、孤立し、強い個性だけが浮かび立つようになっていった。「特殊な環境だったよ。」回想する。「7歳でメニューイン音楽学校に入った時は、“普通”の学校にすら大して行ってなかったからね。人生ってものを形作る場所じゃなかった。教員の殆どは音楽家で、校長を別とすれば、生徒とのかかわり方に関するきちっとした研修を受けたことも無かった。普通なら、学校にも、家庭にも、力関係や、決め事のある種の構造があって。でも、ユーディの夢見がちな感情から生まれた学校のあり方は、たった1年かそこらの間に形になったばかりで、それぞれがまとまってなかったんだよね。小さな子が、部屋に2時間放っとかれて、どうにか正しい練習の時間の割り振りをしろと言われる。扉の後ろでどうしたら良いか分からないからってドアから頭を出そうものならこっぴどく叱られるかもしれないからね!」

ケネディが対策方法を編み出すまでに大して時間はかからなかった。練習時間の4分の3はトイレに篭ってSF小説を読んだりしたのだ。スケールやアルペッジオや、新しい曲は残りの30分で仕上げる。その方法は、最終的には役に立っていると、ケネディは言う「どうやって練習するかなんて誰も教えてくれはしなかった。教師達は名の知れた音楽家ではあったが、児童心理なんて全然理解してなかった。当時、僕よりも上手く弾いてた騒々しいガキは、そういう先生達から得たものが多いと思うよ。入った時は、ヴァイオリンを始めてからたったの数ヶ月しかたってなかったしね。」

ユーディ・メニューインは、ケネディの音楽的発展に直に影響を及ぼしている。この素晴らしいヴァイオリニストは、とあるインタヴューで入学試験当時を振り返り『彼には何かただならぬものがあった。おのずからそなわった才能というのだろう。なにしろ6歳の子供が即興演奏してみせたのだから』と語っている。また、この明らかに内向的だった生徒の才能に気付き、ある日メニューイン音楽学校を訪れたジャズ・ヴァイオリンの巨匠ステファン・グラッペリとの校内コンサートが開かれた時には、真っ先に彼の呼びかけに応えジャムセッションをしてみせたケネディのジャズに対する情熱(これが縁でケネディはグラッペリのコンサート・ツアーに共演者で同行することになった)を積極的に応援した。「あの学校に行ってなかったら、今頃クラシックは弾いてないかもね。バンド少年と出会って、そっちの方向に行ってたかもしれない。一日中特筆すべき音楽に囲まれていたんだ。どんな方法で音楽が演奏されるべき、とか、いつベートーヴェンが生まれたかってよりも、浸透による教育って感じだったかな。」

ある夏学期、フットボールで指を痛め、タッチラインに左遷させられたとき、メニューイン音楽学校で他生徒の練習を聞いていた。「あの時はちょっと得した気になってただけかもしれないけど、学生生活のうち、すごく鮮明に記憶にあるシーンだな。ある窓からはドビュッシーの旋律が、またある窓からはバッハが。レベルの高い音楽を楽しめたことは僕が受けた音楽教育のうちで素晴らしい出来事だった。」

16歳、ニューヨークに渡ったケネディががっかりしたことに、音楽を楽しむことはジュリアード音楽院の教育の一環ではなかったようだ。羨望の的である音楽院の新しい生徒は、狭く、キャリア優先の先輩、しきたり通りの教育に獲りつかれた先生にショックを受けた。彼がこの大学での経験から得たものは、情熱とイマジネーションを以って演奏することより、どう世渡りするかということであった。それが機となりニューヨークから早期に引き上げることになる。「メニューインのコネでギグしたかい、なんて聞かれるのは妙だったよ。そんなのばっかりだった。彼のベートーヴェンやバッハに対する解釈なんてどうでもいいんだ。若者が頑なにそんな狭いかたちでしか希望を抱いていないっていうのを見てがっかりした。」

ジュリアード音楽院でのケネディの良き指導者で、今日のもっとも成功したヴァイオリン教師であるドロシー・ディレイは、ケネディの慣例にとらわれないクラシック音楽の弾き方を理解しようと精一杯だった。「彼女に、僕がジャズを弾いてることがばれたときはまいったな。クラシック音楽のレコード会社は僕と契約したがらないぞ、って言ったよ。ステファン・グラッペリはカーネギーホールでのギグで『さぁ、一緒に弾こう!』って言ってくれたんだよ。ジャズを弾くことを止められた、って彼に伝えたら本当にしょんぼりしてたよ。僕は彼の楽屋でウィスキーのボトルを半分開けて、ステージにゆっくり上がっていった。ディレイ先生は客席にCBSレコードの人がいて、もう僕のクラシック音楽を録音しないだろうって言った。でもね、ステファンみたいなヴァイオリン弾きとジャズを演奏することは、人生のうちでもっとも印象深いことのひとつで、教育上でも自然なことなんだ。」

何年もの間、クラシック音楽の純粋さを守ることを掲げた者たちとの衝突はよくあった。特に、感情的な表現とコミュニケーションを重視するアーティストに対し懐疑的で、敵対心を持つ人たちだ。「音楽を閉ざされたクラブで扱うべきだ、みたいなあのどっかり腰をおろした態度はもっとひどくなるんじゃないかな。ロンドンの紳士クラブのドレスコードみたいにね。クラシックや他のタイプの音楽には他者を締め出す一種の決まりみたいなものがある。ラップやメタルファンだってみんな同じような格好、髪型だろ。これだって決まりのひとつだよ。ユーディの最大の遺産は、彼はオープンであったことなんだ。ビートルズがラヴィ・シャンカール(北インド古典音楽の巨匠)の名高さを知る前から一緒に弾いていた。ジプシー音楽みたいなものに情熱を持っていたステファン・グラッペリとも演奏した。つまり、すごく開けた思想を持つ人なんだ。」

メニューイン音楽学校のケネディへの報告書から90年代中の5年に渡る突然の活動休止に至るまでの全てが、ケネディが本能に忠実に、常に彼のやり方で物事を決めて来たということを証明している。「はっきりとわかったんだけど、音楽のスタイルにとらわれず、同じように楽しく弾けるんだ。地下鉄の駅で弾いたって、クラシック音楽家として成功したって、楽しければいい。どこで音楽するべきかっていう概念はなかった。そのほうが失うものも少ないしね。もちろん、今となってはどこで自分がブラックリストに載ってるかってことは気になる。だって、人のために弾くことの感覚の味をしめたし、欲もあるからね。でも、ジュリアードの年間80とか90のオーケストラとの共演を果たさないと気がすまないような生徒と違って、最初は全く気にならなかった。音楽って、僕にとっては何処に行き着くかわからない旅みたいなものだからね。」

あえて他人と違おうと意識してきたのだろうか?ケネディ仕立てのスタイルが彼の順調な成功への道の足がけとなったのだろうか?古風なコンサート衣装に替わってちょっと派手なもので登場したことは、彼のイメージを築くことの一つを担っていただろう。1977年、イタリア人指揮者のリッカルド・ムーティ/フィルハーモニア管弦楽団と共演したロイヤル・フェスティバルホールでのデビューでは正装での登場だった。その時ただ一つ伝統を破ったと言えば、オーケストラの入りの時にアストン・ヴィラのマフラーを見せびらかしたことだろうか。

数年後のロンドン公演当日の朝、燕尾服をニューヨークに忘れてきたことに気づいた時に伝統は完全に覆された。カムデン・マーケットを訪れ、25ポンドのぶかぶかの古着に投資し、一件落着したのだ。「それを着るとなったら緊張したけど、いざ演奏となったらずっと落ち着けた。動きに余裕を持てたんだ。後で、人からクラシック音楽界ですごいことをしたって言われた。皆のため、そして自分のために何かすごく良いことをした気分になった。間違いから始まったことだったけど、あんな反応があって、これで行こうと思った。ドロシー・ディレイが僕の服を送ってくれたと思うんだけど、それが着いた頃にはもうこの新しい服装に慣れてたかな。もうどこにもないよ。20代最初の頃はエージェントや僕の仕事に関る人の言うことに敬意を払って、白いネクタイと燕尾服が聴衆にもっと良い音楽を与えると言われれば着ていたけど。でも、それは僕の音楽性を自由にはしてくれなかったし、実際のところ物理的にヴァイオリンを弾く上での足かせになっていた。」

80年代初頭までには英国のクラシック興行界で頭角をあらわし始めたことで、主要レパートリーに集中するべく少しの間ジャズや他のジャンルの音楽を弾くことを止めていた。1984年に英国の指揮者であるヴァーノン・ハンドリーがEMIでのロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのエルガーのヴァイオリン協奏曲の録音に誘ったことで大ブレイクを果たす。この録音は名高いグラモフォン・レコードの1985年の賞(ベスト・レコード・オブ・ザ・イヤー。ケネディの名声を確立した記念すべきレコーディングとなった)を受け、関った者の偉大なる自慢話となった。「ハンドリーが僕のエルガーの演奏スタイルに信頼をおいてくれたのはすごく嬉しかった。そんな功績があっても、レコード会社は英国人アーティストとの契約を恐れていた。でも、それは僕にとって良かったんだ。契約を得た奴の3倍一生懸命練習して、3倍上手く弾くって決めたんだ。『四季』で起こったことの後、業界の人間は英国人アーティストを嫌がらないし、今となっては英国人であることはかえってヘルプかも!」

EMIクラシックスとの契約、急上昇したエルガー、ブラームスの協奏曲の売上、そして何よりもヴィヴァルディ『四季』の成功があって、間もなくレコーディングスタジオは第二の家となった。89年ケネディの記念碑的レコーディングであるこのヴィヴァルディの『四季』は、発売と同時にクラシック・チャートで第1位、その後も6ヶ月という驚異的な長期間にわたりチャート上位を占め、同時にポップ・チャートでも第6位にまで昇りつめ、ケネディはポップ・ミュージック界をも賑わせた初のアーティストとして知れ渡った。この『四季』で、クラシック作品として史上最高の売上を達成したとギネスブックに認定された。ケネディはその当時から実際にポップ・ミュージシャンとの共演も好んで行い、ケイト・ブッシュ、ポール・マッカートニーのアルバムにも参加していた。

『四季』と鋭いマーケティングは、広く一般の人々を捕らえ、このヴァイオリニスト、そしてその作品、人生に関心を持たせた。“ナイジ”に対しての固定概念が出来上がった頃、ケネディは公開演奏の場から完全に身を引くという決断をし、大きな話題となった。1992年のことである。なぜだろう?「自分はまだ演奏家として伸びつつあって、常によりよいパフォーマンスを提供し続けているつもりだった。でも、プロとしてのプレッシャーから、同じことの繰り返しにならざるを得なくなっていた。セミ−ロック、セミ−コンテンポラリーなどの形の、僕自身の作品は隅においやられちゃった。僕が16歳の頃から目指してたような、『四季』が成功だったら色々なタイプの音楽をやらせることを任せてもらうってことではなかった。音楽を自由な環境でやるから、他のモノだって伸ばすことができる。だから音楽には自由が必要なんだよ。時間をとったのは、その自由さの感覚を無くさないためだったんだ。」

5年の沈黙を破った後の1997年、待ち望まれたケネディのロンドン・フェスティバルホールでの復帰コンサートは、質やパワーのみならず、バルトーク、バッハ、ジミ・ヘンドリックスの自身によるアレンジを組み合わせた彼の曲目への裁量により、当然のごとく熱狂的な好評を博した。この演奏は英国総選挙の選挙運動期間中に行われたにもかかわらず、ケネディ復帰のニュースとして全国紙の第1面を飾った。「ザ・タイムズ」で評論家は『私の人生の中で、これほど大胆で心を高揚させるようなものを生み出した英国人ヴァイオリニストはたった1人だけだ。』ケネディの新たな成熟ぶりについては、『作品が要求する驚異的スタイル上の移行をやってのけられるヴァイオリニストは、世界中に彼の他にいない』と断言した。「ザ・デイリー・テレグラフ」は、『ケネディは100万人に1人のヴァイオリニストだという事実を、改めて思い知らせてくれた』と述べた。

アルバムとしては復帰後、まずエルガーのヴァイオリン協奏曲を再レコーディングした。そしてこの曲を、同時に録音したヴォーン・ウィリアムズの『揚げひばり』と共に、サー・サイモン・ラトル指揮のバーミンガム市交響楽団と共演。「ザ・デイリー・テレグラフ」の評論家は次のようにコメントした。『フィナーレの無伴奏のカデンツァは、私がいまだかつて経験したことのないほどの、背骨をくすぐられるような不気味さを湛え、最後の数小節は極めて圧倒的な力強さで迫ってくる』。1998年、ケネディはリサイタルCDの1枚全部を、偉大なヴァイオリニストにして作曲家であるフリッツ・クライスラーの作品で埋めた。また「The Kennedy Experience」と称し、伝説的なギタリスト、ジミ・ヘンドリックスの音楽をもとに、その作品に触発されたアルバムをケネディ自らプロデュースし、リリースした。その他、小品集「Classical Kennedy」は発売と同時に英国のクラシックチャートのナンバーワンに昇り詰めた。

2000年にはケネディにとって初めてのバッハ作品がリリースされた。ケネディ自身が指揮したこの演奏は、世界最高峰のドイツオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団メンバーとの共演による初のレコーディングでもある。
同年、クラシカル・ブリット・アワードの「英国音楽功労賞」を授与され、授賞式がロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた。その翌年、同アワードはケネディに「年間最優秀男性アーティスト賞」を授与した。テレビ放映された授賞式の目玉として、このヴァイオリニストはベルリン・フィルのメンバーとの共演でバッハを演奏し、続いてクラカウを本拠地とするポーランドのミュージシャン・トリオであるクローケと共に、モンティの「チャルダーシュ」の躍動的解釈を披露し、観客の度肝を抜いた。また同年ドイツではエコー・クラシック2001にて「年間最優秀器楽奏者」賞を獲得している。

ケネディは、彼のこれまでのものすごいディスコグラフィを見て、その幅広さを次のように説明する。「違うヴァージョンを創りたいと思わない限り、あるいは特別な理由が限り、ベートーヴェンをもう一度録音する必要はないんだ。僕にとってバッハやブラームスや、僕自身のジミ・ヘンドリックスの作品を録音する時に大切なのはそういうことなんだ。感情的に大切だと思ってきたことを尊重してきた。」

最近では、ジプシー音楽にインスパイアされた曲や、ユダヤ系クレツマー音楽は、ケネディのレパートリーの重要な位置を占め、小奇麗なマーケティング法、芸術性の停滞を避けることを強調している。「クラシックのレパートリーが目の前にあって、チャルダーシュやホラ舞踊も弾けるって幸運なことだよ。先ず、クラシックに始まって、今ではジプシーものが僕のクラシックになってきたかな。」
ハンガリー・チャルダーシュ・ダンスや、ポーランドのクレツマー楽曲、ルーマニアの舞踊曲が即座に中流階級出身の英国人ヴァイオリニストの範疇であることに結びつかないものの、ケネディはジプシーやユダヤ音楽の伝統がなぜ自分の演奏の深い感情から解き放ったかを説明する。「自己分析といったらちょっとキザかな。でも、音楽家としていつも世界中を飛び回るのは、多くのジプシーの人たちが旅人であることと同じなんだ。僕は、まあ言ってみればトム・クルーズ年代の人たちみたいに身なりが良いわけじゃない。だから、ルーマニアに行ってジプシー音楽を弾く人たちと会ったり、付き合ったりするほうがしっくり来るんだ。」さらに、最近になって長く付き合った、ポーランド人の法学生のアグニエシュカと結婚をし、クラコウにも居を構え、地元のクレツマー音楽グループ、クローケと定期的に活動をしている。

2002年、ポーランド室内オーケストラの芸術監督に任命された。その地位はかつて彼の良き理解者、指導者であるメニューイン卿のものでもあった。同年秋、ポーランド室内オーケストラは新しい芸術的リーダーを伴奏し、ツアーし、ロイヤル・フェスティバルホールからケネディのデビュー25周年をともに祝った。

2003年、ケネディはクローケとの共同制作アルバム『イースト・ミーツ・イースト』をリリースした。
そしていよいよ、“最も売れたクラシック”としてギネスブックの認定も受けたヴィヴァルディ『四季』の再録音を発表する。ベルリン・フィルのメンバーを再び得て録音されたこのニュー・ヴィヴァルディ・アルバムは、新たな進化を遂げた『四季』として、ケネディの終わらない音楽の旅を象徴する作品となるだろう。そのライヴ=ギグが10月ヨーロッパ、11月日本でそのヴェールを脱ぐ。
当ホ−ムペ−ジに掲載された記事、写真画像、イラスト等の無断引用・転載を禁じます
Copyright (c) NoaH Corporation Ltd. All rights reserved.